渡英して3週間でフォームチェンジしてイギリス初騎乗初勝利。
渡英して1ヶ月半で2000ギニー制覇。
漫画みたいな話ですが、これをコーゼンはあっさりとやってのけました。
イギリスに渡ったのは1979年3月。
前年の1978年、18歳のコ―ゼンはアファームドに騎乗し、アメリカの牡馬三冠を達成しました。しかしその直後から、コーゼンは体重管理からの精神的ストレスなどによる影響で110連敗するなど、それまでの成功の反動かのような大スランプに陥ります。
◆18歳のコ―ゼンが騎乗したアファームドの三冠レース
(特に三冠最後のベルモントSは1400mに渡る世界競馬史上最高のマッチレースで必見)
・1978年ベルモントSの別アングル映像
1979年。アメリカ牡馬三冠達成の翌年、コーゼンはイギリスに渡ることを決断します。
といっても、1979年も2月まではアメリカで騎乗していました。しかし、前年からの体重管理によるスランプから抜けられず、アファームドの主戦を降ろされるなど、状況は好転しませんでした。そんなとき、イギリスの馬主ロバート・サングスターから体重管理がアメリカより厳しくないイギリスで騎乗しないかという誘いをコーゼンは受けます(1年間の騎乗契約依頼)。そこでコーゼンは、新たな刺激や復活のきっかけを求めて、1979年3月にイギリスに渡りました。
渡英から3週間後の1979年4月7日、コーゼンはイギリスで初騎乗初勝利を挙げます(中央の赤い勝負服の馬)。この角度の映像だと分かりずらいですが、この時点、つまり初騎乗の時点でコ―ゼンのフォームは変わっています。よく見ると膝の角度が90度に近い状態(つま先~膝~腰で90度の角度を形成)に変化し、馬の動きに合わせて膝を支点に身体を上下に伸縮させています。アファームドの騎乗姿勢と比べると明らかですが、渡英後3週間で、アメリカ時代の騎乗姿勢、支点の作り方と全く異なるフォームに変化して初騎乗初勝利を果たしたのです。
コーゼンはイギリスに渡ると決断したものの、「いつアメリカに帰ることになってもおかしくないと考えていた」とインタビューで答えています。しかし、初騎乗初勝利という最高のスタートを切ったわけです。
もっとも、イギリスの競馬場の数は多く、コース形態も日本やアメリカより遥かに多様です(起伏や芝の状態がコースごとに全然違う)。約35ヵ所もあるコース全ての特徴を理解するまでには3年を要したとコ―ゼンは語っていますし(それでも尋常ではない速さだと思いますが)、初勝利後もフォームの修正や改良は続けています。
(※以下のインタビューを参照
Welcome Back, Kid - Sports Illustrated Vault | SI.com
Racing Greats - Steve Cauthen - Racing TV - YouTube)
初騎乗初勝利から1ヶ月後、渡英から約1ヶ月半後、アファームドでの三冠達成から約10ヶ月後の1979年5月5日、19歳になったばかりのコーゼンは、イギリスの2000ギニーをTap On Woodで勝利します(21頭立て20番枠、道中は馬群大外の最後方)。日本式でいえば単勝20倍くらいの人気薄の馬で、圧倒的一番人気の無敗馬Krisを負かしました。こちらの映像は分かりやすいですが、フォームが完全にヨーロピアンスタイルに変わっています。膝下が馬体に対して垂直に近い状態のまま微動だにせず、上体(膝から上)は弾むように上下に動きながら、軸も上下動のリズムも一切乱れないコーゼン独特の追い方で、いきなりイギリスのクラシックレースを勝利しました。
先頭の騎手がコーゼンです。渡英から2か月後の時点でフォーム変化はほぼ完成しています。
※アメリカ時代とイギリス時代のコ―ゼンのフォームについては、以下の2つのエントリーをご参照ください。
フォームを3週間で変えたことも凄いですが、レース体系の変化に適応する能力、仕掛けのタイミングやレースの流れを瞬時に把握するレースセンスが高くなければ、初騎乗初勝利から1ヶ月で2000ギニーを勝つことなど絶対にできません。コーゼン自身は「19歳という若さがアドバンテージだった。若い時期だから異なる環境に適応することができた」と語っていますが、それだけでこの結果を出せるものではありません(ただ、逆にといいますか、コーゼンの逸話を知ると、40歳を超えて地方から中央へ移籍し、乗り方を変えて全く異なるレース体系に適応し、圧倒的な成績を残した安藤勝己の凄さもあらためて分かります)。
武豊騎手がコーゼンのアメリカ時代とイギリス時代のフォームの違いの凄さを語ったインタビューがありますが、フォームが違うだけでなく、フォーム変化の速さ、異なるレース体系やコースへの適応能力が桁違いです。
※コーゼンが勝利した2000ギニーに関する英文記事(George Selwyn’s 2,000 Guineas memories - The Owner Breeder)
※45分にわたるコーゼンのドキュメンタリー番組のまとめ(ヘンリー・セシルのインタビュー等もあり)はこちら。
以下に載せる同年6月のアスコット競馬場でのGold Cupは3着に敗れますが(最内枠の緑の勝負服)、このレースでも直線の追い方だけでなく、アメリカ時代の静止画像のように真っ平で水平な姿勢とは異なる姿勢のコ―ゼンを見ることができます。
同年11月、コーゼンは大井競馬場に招待され、2週間計4日間、大井競馬場で騎乗しました。他のエントリーにも載せましたが、その時の貴重な映像が残されています。
2000ギニー勝利後も着実に勝ち星は挙げていき、G1も勝利していきますが、その後しばらくはイギリス(ヨーロッパ)ではクラシックレースなどの「ビッグレース」を勝つような機会には恵まれませんでした。
転機となったのは、他のエントリーでも取り上げた1983年のDubai Champion Stakesでの「神騎乗」、コーゼンの代表的な騎乗として必ず取り上げられる、20頭立て最後方から馬群を捌いて勝利した、23歳のコーゼンによる圧巻の騎乗です。
◆1983年 Dubai Champion Stakes
このレースを機に多くの関係者から声がかかるようになったコーゼンは、1984年に初めてイギリスでリーディング(チャンピオンジョッキー)を獲得することになります(1985年、1987年の合計3回獲得)。アメリカとイギリス両方でのリーディング獲得は史上初で、現在までコーゼンただ一人がもつ記録です。
翌年の1985年、後にフランケルも管理することになる名調教師ヘンリー・セシルとコンビを組み、25歳でイギリスダービーを69年ぶりの逃げ切り、それも大逃げで勝利します。このとき、世界の競馬史において初めてケンタッキーダービーとイギリスダービーの双方を制した騎手が誕生しました。
◆1985年 イギリスダービー Slip Anchor
◆1978年 ケンタッキーダービー Affirmed
また同年1985年は、Oh So Sharpで牝馬三冠を達成し、アメリカでは牡馬三冠、イギリスでは牝馬三冠を達成した年でもありました。今のところ、これがイギリスにおける最後の牝馬三冠です。
◆1985年 コーゼンとオーソ―シャープ (Oh So Sharp) による牝馬三冠レース(イギリスの牝馬三冠目は牡馬と混合のセントレジャー)
1985年はコーゼンのキャリアの中でもピークといえる年です。
しかし同時に、20代後半に入ったこの頃から体重調整がさらに厳しくなり、鬱とアルコール中毒で精神科に通う状態にまで追い込まれ始めていました。もしかしたら25歳前後の時点で、コーゼンは自身の残りのキャリアは長くないと考えていたのかもしれません。
本ブログでも取り上げていますが、イギリスダービーでの大逃げ圧勝も含めた「ペースメーカーの存在無視の果敢な逃げ」によるヨーロッパの大レースの数々の勝利、「逃げて差す」かのような「変化自在の逃げ」、自在な位置取りと脚質転換、20頭立て最後方から馬群を縫ってゴボウ抜き、40頭立て最後方から馬群を縫ってゴボウ抜き、道中の位置取りから仕掛けのタイミングまで一分のミスもないアメリカ牡馬三冠での騎乗、ベルモントSでの伝説のマッチレースと鞭の持ち替え・・・。コ―ゼンが見せたレースの「極端さ」の幅は、レスター・ピゴットやランフランコ・デットーリをも上回ると思います(映像は残っていませんが、デビューから約1年後の16歳のとき(1977年4月)、レース序盤のコーナーで鞭を落としてしまったあと、いっさい慌てることなく離れた最後方を進み(ポツン騎乗)、直線を向いても最後方、そこから馬群を離れた外も外、大外の大外に進路を取り、右手を鞭の代わりに使用して馬の首を叩きながら馬を追い、最後方から大外一気の追い込みを決めて勝利したそうです。リンク先の記事にも書かれていますが、このデビュー1年後、16歳の時期のコーゼンの騎乗を、アメリカの殿堂入り騎手パット・デイが激賞し、後輩のコーゼンに向かって直接賛辞を送っています)。しかし、レースだけに集中して乗れた期間は本当に短いものでした。コ―ゼンと同時に騎乗していたイギリス人騎手マイケル・ヒルズは「1985年からの約3年間は文句なしに世界一の騎手だった」と語っています。それは裏を返せば、1980年代後半、30歳になる前の段階で、騎手としてのピークは過ぎていた、下降気味だったということでしょう。
なお、2024年時点では、ケンタッキーダービーとイギリスダービーを両方制した騎手は、スティーブ・コーゼンただ一人です。しかし、ケンタッキーダービーとイギリスダービーの両方を制する騎手は、今後、再び出てくる可能性はあると思います(遠征などの一発勝負で勝利することも可能なため)。しかし、アメリカとイギリスという、競馬大国かつレース体系が全く異なる二つの国でリーディングを獲得する騎手は、二度と出現しないと私は思います。日本ではあまり取り上げられませんが、コーゼンが残した功績は、それくらい、競馬史上に残る偉業なのです。